思ったことをつらつらと

カネコアヤノみたいになりたい

美人で少し癖のある声、だけど歌がうまくて、思いを声に届けることができる。

きっと、自分の価値がわかっている人なんだろうな。

ステージで輝いているさまからはそう見える。

でも、もしかしたら私生活の彼女はそうでもないのかもとも思いつつ。

 

自分は、思いを吐き出さなきゃ生きていけないようなそんな人間の歌う歌が好きだ。表現せずにはいられない。だから歌を歌っているような人が。

 

 

やりたいこと

なんとなく霧散していた、自分のやりたいことってやつが少しづつ言葉になってきている。

自分は凸凹の多い人間で、幾ばくか苦労をしている。

できることとできないことがハッキリしているし、できないことを甘えだと捉えられてしまう。定型の人には理解できないのだと思う。逆がそうであるように。

要するに、人と人とのギャップが大きいことで互いに理解できない事が多すぎる。はなから理解しようとしてない人間は論外だが、理解しようとしても、実際問題難しいのである。

だって自分は、ブラジルの子供たちの境遇などわからないし、今更小学生の気持ちもわからない。成長とは何かを得る代わりに何かを失う行為だと思っている。

でも、テクノロジーによって少しでも橋渡しができないか。

理解を促すキーとなれないか。

多くの争いは、人間通しか互いの感情を理解できないために起こる。人種差別、いじめ、教育問題、etc....

理解する気がない人間は仕方がないが、理解しようと思う人間を助けることくらいはできるはず。

それをアートやテクノロジーで表現することが自分のやりたいことだ。

根本にあるのは、皆が仲良くお互いの凸凹を理解し、それぞれが人間らしく生きれること。

そういう考えを持って生きていこう。

ここだけは自分のもつ核の部分だ。

 

最近の近況

ここ数週間のモチベーションは地に落ちていて、死ぬほどやる気があった期間が嘘のように土日は寝ることだけが楽しみになってしまった。ネットで軽い気持ちで鬱病診断をしてみたが軽度うつと出てきた。でも、どうしろというのだ。

ここで逃げることは許されない。今までの自分を否定したことになってしまう。闘え俺、たとえ道が見えなくとも。

その先に光がなくとも。

走り抜けたからこそ見える何かがあると信じて。

 

僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない

尾崎豊は勝ち続けられたのか。

五十嵐隆は「俺が俺であるためにただ闘っているそれだけ」と言った。

音楽は自分の心を癒やしてくれる。周りには相談できない苦しみを共有してくれる。

でも、一時的なものだ。カンフル剤にはなりうるけど、結局のところ闘うのは自分だ。

他人に迷惑かけても、如何に自分が悪くとも、俺は間違っていないと言い続けるしかないのだと、闘い続けなければ社会に殺されてしまう

戦うときと戦わないとき。サラリーマンであるために

先輩と揉めている。ひとえに自分の能力の無さと、先輩との相性の悪さ…そして様々なミスコミュニケーションが原因だと思われる。

なぜこうなってしまったのかが自分でもよくわからなくて、一生懸命にやっていたはずが求められているものと違ってしまっていたとか、目に見える形でアウトプットを残していなかったとか、そんなサラリーマン的作法が分かっていなかったとかそんな理由なのだろうけども。

もう一回やったらうまく行くのかな?それでも、自分には向いていない領域かもしれない。抽象的な何かを取り扱うのは難しい。人より機械と心を通わすことを選んだ自分には。

 

タイトルはとても優秀な先輩にアドバイスしてもらった言葉。

勝てないときには戦うな。やるときは徹底的に。証拠は残すな。

 

ぬるい自己干渉に浸っている限り、突き抜けた何かにはならないのだろう多分

平日は地獄だ。何やら分けのわからない生き物たちがわからない言葉を喋りかける。どうしようもなく自分が劣っているような感覚に陥り、安っぽいぬるい自己干渉に浸って見るが、あいつらが間違っているのだと開き直ることもしばしば。なんとなく心の底ではわかっているのだが、まともに生きれるという希望を少しでも残したい。精一杯やったけど駄目だったのだと納得したい。そんな、自己満足のみをモチベーションとして生きていることを隠しながら、皆何かを変えたいと大きな声で叫ばなければならない。

ある人に、君は人の心が分からないんだねと言われた。

違う、そうじゃない。俺が分からないのは大企業でサラリーマンやっているお前らだけだ。なんて、口が裂けても言えない。

久しぶりに高野P介のブログを読んだらこんな感じの脈絡のない文体だったので、ああブログなんてこんな感じでいいのだなと思い文章を書いた。構成なんてクソくらえ、思ったことを書き出すだけでも何か前進するような気もする。

My Bloody Valentine@豊洲PIT 8/15

My Bloody Valentine(以下マイブラ)のライブに行ってきました!

凄まじい轟音ノイズから生まれる、未知な感覚を体感しましたので書き記したいと思います。

 

ちなみに、このマイブラというバンドのライブでは耳栓が配られます。

あまりの轟音で難聴にならないようにという配慮かと思われます。

音楽ライブなのに耳栓を配るとはどういうこっちゃという感じですが、

様々な感想を拝見すると、大切なのは音を感じること、聞くことではないらしいです(笑)

 

 

1.音に包まれる感覚

先ず、体に感じる振動が普通のライブの比ではないです。

液体の中に入っているようなぬるい肌触りが、心地よく体に響いていきます。

また、曲が終わった瞬間に音が消え謎の浮遊感を生み出しますw

 

2.音が脳に直接響く感覚

あまりの音の大きさに、途中から自分の脳みそから音が発せられてるのではないかという錯覚に陥ってきます。

美しいノイズが頭の中を響き渡り、覚醒状態に入りますw

やばい薬でもやってんのかという様な言い回しですが、それくらい訳が分かんなくなってきます。

酩酊状態で行くと最高かもしれません。

 

3.音と光のインタラクション

バンドの後ろ側にスクリーンとライトがありまして、曲によって映り替わります。

それはそれはスピリチュアルな映像と、まばゆいフラッシュが催眠術の様にしか思えなかったです。

轟音ノイズと相まって、意識を奪いに来ます。やばいぜ

 

この3点からマイブラのライブは未知な感覚を体感させてくれます。

途中からはわけがわからん状態でぼーっと見てましたが、後にも先にも初めての感覚だと思います。

次があるならば、お酒持参で挑もうかと思いますw